砥部焼専門店/砥部焼の浜陶 Blog
2025/12/08 17:39

1. 起源:砥石のくず再利用(江戸時代中期)
砥部焼の始まりは、大洲藩(現在の大洲市・砥部町周辺)の経済政策と深く関わっています。砥石の産地としての背景
もともと砥部地方は、奈良・平安時代から良質な「伊予砥(いよと)」と呼ばれる砥石の産地として有名でした。しかし、砥石を切り出す過程で、山のような量の「砥石くず」が発生し、その処理が大きな問題となっていました。
大洲藩の財政再建
安永5年(1776年)、大洲藩主の加藤泰候(かとう やすとき)は、藩の財政を立て直すため、この邪魔者であった「砥石くず」を原料にして磁器を作れないかと考えました。これが砥部焼のスタート地点です。
創業の苦難
藩は、庄屋の杉野丈助(すぎの じょうすけ)に磁器生産を命じました。杉野は、肥前(現在の長崎県・佐賀県エリア)から陶工を招き入れて技術開発を試みましたが幾度となく失敗。資金が尽き、家財を売り払うほどの苦難の末、安永6年(1777年)、ついに白磁の焼成に成功しました。
多くの焼き物が「良質な粘土の発見」から始まるのに対し、砥部焼は「産業廃棄物の有効活用」から始まったという非常に珍しい歴史を持っています。
2. 発展:「くらわんか碗」と日用食器への道(江戸時代後期)
創業に成功したものの、初期の砥部焼は有田焼(伊万里焼)のような洗練された薄手の磁器を作るのは技術的に困難でした。そこで独自の路線を歩み始めます。「くらわんか碗」の生産
当時、大阪の淀川では、船客に「飯くらわんか、酒くらわんか」と声をかけて食事を売る「くらわんか舟」が行き交っていました。ここで使われる雑器(安価で丈夫な器)として、砥部焼が大量に採用されました。
特徴の確立
船上で使っても倒れにくいよう高台(底の部分)が大きく重いのが特徴でした。これが、現在の砥部焼の代名詞である「ぽってりとした厚み」や「丈夫さ」のルーツとなりました。
3. 近代化:輸出と技術革新(明治〜大正時代)
明治に入ると廃藩置県により藩の保護がなくなりましたが、砥部焼は自力で販路を拡大していきます。海外輸出
中国や東南アジア向けの輸出が増加しました。「伊予ボール」の名でサンフランシスコなどにも輸出された記録があります。
淡黄磁(たんおうじ)の開発
明治中期、向井和平により、少し黄色みがかった温かみのある白磁「淡黄磁」が開発され人気を博しました。
バリ・コンベア方式の先駆け
大正時代には、生産効率を上げるために機械化が進み大量生産体制が整いました。しかし、これは一方で「質の低下」を招くリスクも孕んでいました。
4. 転換点:民藝運動による再評価(昭和初期〜中期)
昭和に入り機械化による量産品が増える中で、砥部焼の芸術的価値を決定づける大きな出来事が起こります。それが「民藝運動」との出会いです。柳宗悦らの来訪
1953年(昭和28年)、民藝運動の創始者である柳宗悦(やなぎ むねよし)や、陶芸家の濱田庄司、イギリスの陶芸家バーナード・リーチらが砥部を訪れました。
手仕事への回帰
彼らは、安易な機械化や化学顔料の使用を批判し、「手仕事の良さ」「自然な色合い(呉須の藍色)」「実用的な美(用の美)」を取り戻すよう強く説きました。
現代スタイルの確立
この指導を受け、砥部焼は再び「手描きの良さ」を見直し、現在よく見られる「白磁に呉須の大胆な筆使い」というスタイルが確立されました。特に、唐草模様などのデザインはこの時期に洗練されたものです。
5. 現在:伝統的工芸品としての地位(昭和後期〜現代)
国の指定1976年(昭和51年)、国の「伝統的工芸品」陶磁器部門として全国で6番目に指定されました。
女性作家の台頭と多様化
現在、砥部焼の窯元は約80〜100軒ほどあります。伝統的な白磁×藍色のデザインを守る窯元もあれば、色絵やモダンなデザインを取り入れる若手作家、特に女性作家が多く活躍しているのも近年の特徴です。
このように、砥部焼は「産業廃棄物の解決策」として始まり、「民藝運動」によって芸術性を高め、現代のライフスタイルに合わせて進化し続けてきた焼き物です。

